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8月, 2015の投稿を表示しています

九之助橋(くのすけばし)

 九之助橋の架かる東横堀川は、大坂城外堀として豊臣秀吉により、天正13年(1585)に、開削されたものといわれている。江戸時代初期の慶安~万治年間(1648~1660)の絵図には、既に九ノ介橋として記載されていることから、最初の橋は東横堀川の開削後しばらくのちに架橋されたものと考えられる。橋名は、何らかの関係者の人名に、つながりそうに思えるが、その由来は不明である。   本橋の西詰北側には、住友家の銅吹所(銅の精錬所)があり、鋳物屋、鍛冶屋などの工業の町であった。  対岸の東詰は、幕府御用瓦師、寺島家の請地で多くの瓦ふき職人や瓦仲仕が住んでいた。   木橋であった九之助橋は、第1次都市計画事業により大正15年(1926)上路アーチ形式の永久橋に架け替え、今回の改修ではアーチ形式や御影石積みの 親柱など旧来の景観を保全するよう配慮し、また照明灯は大正15年当時のものをモチーフとしてデザインした。

住吉大社 太鼓橋

南海電鉄住吉大社駅を出てすぐ東側にある住吉大社の正面に位置する反橋。住吉大社の「住吉松葉大記」には1606年に豊臣秀頼による社殿の大造営があったと記されている。この時に太鼓橋も架けられたとされる説が有力である。 太鼓橋は、長さ20m、幅5.8m、高さ4.4m、最大勾配48度。橋を支える柱や梁は石造りで、豊臣時代のままと言われている。 欄干や桁、床板は木製。江戸時代後期には「住吉反橋再興渡り初、歳久しく朽て、石の杭のみ残りて、名のみ成りしに再興あり」と「摂陽奇観」に記されており、維持ができず石の柱のみの時期があった。住吉は海の神様なので、船大工が橋の維持費を負担していたことが、欄干の擬宝珠に刻まれた銘文からわかっている。 太鼓橋の近くには、川端康成の文学碑があり、「反橋」より「反橋は上るよりもおりる方がこはいものです。私は母に抱かれておりました」と刻まれている。

出雲路橋(いずもじばし)

北区と左京区の境にあり賀茂川に架かる橋。古くは京都から鞍馬へ向かう街道の出入口である鞍馬口(出雲路ともいう)に近い要路であった。明治中ごろまで橋がなく、鞍馬口通が川床を渡っていた。 橋長:80m 幅員:9.8m