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宇治橋

宇治橋の説明看板

宇治橋
平等院
「宇治橋」は、「瀬田の唐橋」と「山崎橋」と共に、日本三古橋の一つに数えられる。

宇治橋には右のような看板が右岸側に掛けられており、次のようなことが書かれています。

「千三百年以上もむかし、大化二年(六三六)に初めて架けられた伝えられている、わが国最古級の橋です。
 その長い歴史のなかで洪水や地震などの被害はもちろん戦乱に巻き込まれたことも数えきれません。しかし、橋はそのつど架けなおされてきました。ここ宇治が、交通上重要な場所であり続けたことの表れでしょう。
 またこの橋は、古今和歌集や源氏物語をはじめとする文学作品、絵画や工芸品といった美術品に描かれるなど、古くから景勝の地、宇治の象徴として親しまれてきました。
 現在の橋は、長さ155.4m、幅25m、平成八年三月に架け替えられたもので、木製の高欄に擬宝珠があしらわれるなど、この橋の豊かな歴史と文化にふさわしいデザインがほどこされました。これからも、宇治の名所のひとつとして優雅な姿を川面にうつしていくことでしょう。
 橋のなかほどに張り出した「三の間」は、豊臣秀吉が茶の湯の水を汲ませた場所と伝えられ、毎年十月に行われる宇治茶まつりでは今もここから水が汲まれます。
 この広場には、昭和の宇治橋の「三の間」を利用してテラスを設けました。川と橋そして周囲の山々が織りなす宇治の風景を心ゆくまでお楽しみください。」

近くには世界遺産の平等院や宇治上神社がある。

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